1. ミャンマーでの出来事
2021年2月1日、国軍がクーデターを実行。ミャンマー全土のインターネット等の通信手段を遮断し、アウンサンスーチー国家顧問やウィンミン大統領をはじめとする国民民主連盟(NLD)の関係者らを拘束。2020年11月に行われた「総選挙の不正」を主張して、非常事態宣言を宣言。国軍トップのミンアウンフライン最高司令官が全権を掌握しました。
この日は、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)による2期目の政権発足に向けた議会が始まる予定日でしたが、国軍は強引に権力を奪ってしまいました。
2. 国民の反応
軍によるクーデターは今回が初めてではありません。1962年・1988年にもクーデターを起こし、約60年もの間、国は軍人に支配されてきました。軍事独裁政権下のミャンマーでは、真っ当な選挙も行われず、自由な発言も許されず、限られた一部の人間しかインターネットにアクセスできないなど、国民のあらゆる自由は制限され、国は世界から取り残されていきました。
2011年以降の軍事政権による民政移管、2016年以降の民主化政権の誕生を通じて、人々は本物の自由を感じはじめていました。多くの国民がスーチー政権に期待を込め、選挙に足を運び、自らの意志でリーダーを選んだのです。ようやく手に入れた自由や民主主義を奪おうとする軍事クーデターに対し、ミャンマーの国民は過去のようにただ黙って従う道は選ぶことなく、大きく3つの手段で抵抗の意志を示しています。
3. 全土に広がる国民の反対を前に国軍が取った行動
ミャンマー国軍は、本来 国民を守るべき存在。それなのに彼らは、国民を恐怖で従わせようと、無防備な国民に銃を向けました。威嚇射撃でなく頭を狙った銃殺、地域によっては重火器が用いられ、空爆も行われるなど、老若男女問わず、多くの命が奪われています。命は助かったものの、山中での避難生活を余儀なくされている人も多くいます。自宅の庭で遊んでいた7歳の子供、母の代わりに買い物に行く途中の19歳の少女など、未来ある若者も多く犠牲になっています。
また逮捕・拘束等を通じて国民を脅してもいます。クーデターに反対の意志を示す著名人やCDMに参加する医師や先生に逮捕状を出し、真実を届けるジャーナリストや記者、抗議活動に参加する若者を拘束し続けています。
4. ハリボテのようなミャンマーの民主主義
1948年、ミャンマーは英国から独立。アウンサンスーチー氏の父であるアウンサン将軍が中心となり、「民主国家(連邦国家)」を目指していたが、独立の約半年前、政敵に暗殺されてしまいました。その後、1962年の国軍によるクーデターで、軍が政権を掌握し、ネウィン政権が誕生。そこから長い軍事独裁政権がはじまりました。
1988年、学生を中心とした「民主化運動」が広がりました。この時、国民を率いた1人がアウンサンスーチー氏。1990年に総選挙が実施され、スーチー氏の率いるNLDが「圧勝」したにも関わらず、軍は政権移譲を認めず、民主化運動を弾圧。スーチー氏は合計 15年にわたり自宅軟禁となりました。
軍は、自分たちの利権を維持するため、国会の議席数の4分の1を軍人に割り当てる等、自分らが有利になる、2008年憲法を制定。軍系企業や政商と呼ばれる軍と近い距離にある実業家らとも組み、政治だけでなく経済の面でも影響力を欧米各国は、軍事独裁政権に対する「経済制裁」を発動し、非民主的なミャンマー国軍に強くプレッシャーをかけていました。
2011年、国軍は民主化の道を選ぶことを決め、制裁も解除され、海外からの投資も集まりはじめ、誰もが想像しなかったペースで、人々の間に自由が浸透していきました。NLD政権の人気の高さに、利権を奪われる事を恐れた国軍が起こしたのが今回のクーデターです。
5. ミャンマーという国は
東南アジアで2番目に大きな国土を持ち、人口は5,000万人を超え、平均年齢も29歳と若く、「東南アジア最後のフロンティア」と呼ばれています。仏教、大家族、長幼の序、言語構造など、日本と似た点が多いと言われる国で、自然豊かで田園風景が広がり、一昔前の日本のようなどこか懐かしい牧歌的な雰囲気が残っています。
穏やかな人が多く誰にでも優しく接し、いつも自分のことより相手のこと思いやる優しい国民性で、世界一の寄付大国といった側面も持ちあわせています。
しかし、そのミャンマーが今大変なことになっています。日本からは遠く離れた国で、日常生活とはあまりに駆け離れた出来事であり、関心を持つ機会もなかなかないかと思います。ミャンマーの悲惨な現状に対し、日本人として何か出来ることがあるのではないでしょうか。